王の祈り


風が静かに病室の白いカーテンを揺らす。
点滴や人工呼吸器の管が、病室のベッドで横たわる人物の現実を突きつける。
ベッドの横の椅子には、所々に包帯を巻かれた男が魂の抜け殻に力なくすわり、空ろな目で、ベッドの横たわる人物を見ていた。

「……思い出せない……」

ナックルの目から涙が溢れる。一体何があって、こんな事になったのか。
ヒヨリは留学していたはず。何故こんなことになったのか。覚えているのは、国が滅びたことくらい。
ヒヨリが居なくて良かったと思った。そう思い、こげ茶色の髪の男にどこかへ連れて行かれた。
その後が全く思い出せない。何か、自分にそっくりな奴と戦っていた気もするが、気がついたら目の前でヒヨリが倒れていた。

「ごめん……ごめんな、ヒヨリ……」

死にかけていた自分に、こげ茶色の髪をした男が何かを問うた気がする。
冷たい眼差しの男が今では、何と言ったか覚えていないが、その問いに答え、どこかへ連れていかれた。
ふと、死神とう単語が頭をよぎる。

「あぁ……俺は、あの時死神に命乞いをしたんだ」

光が消えた虚ろな眼で天井を見上げると、ナックルはフラッと立ち上がり病室から出て行った。




保育器の中で、あの女の子の赤ん坊が泣いている。まるで、父親がいなくなったことを母親に伝えるために。
ナックルが立ち去った十五分後、赤ん坊の声が届いたのか、それとも何かを感じたのかヒヨリの意識が戻った。
点滴の針を抜き、呼吸器をはずし、裸足のままヒヨリはナックルの向かった方向へと走り出す。まるで、何かに導かれるように。

「……これが、運命ってものなのかねぇ」

病院の廊下で、走って行くヒヨリとすれ違った、あの男がそうつぶやいた。
男もまた、病院を後にした。

ヒヨリは走った。足が傷つくのも気にせずに、傷口が開くのも気にせずに。
ただ、ヒヨリは走った。ただ、ひたすらナックルのもとへと。
ナックルは切立った崖の上にいた。
記憶のない間、自分が何をやっていたのかはわからないが、こびり付いた血と腐臭の臭いに気付いた。
人を刺した感覚もはっきりとわかる。そもそも、この腰にある奇妙な剣は一体何なんだ。
ナックルは、その感覚と臭いから、人を殺していたことを感じ取った。

「俺、何やってたんだろうなぁ……」

こんな手で、ヒヨリに触れられない。こんな自分はヒヨリの傍にいられない。
ナックルは、壊れた心の中で、そう思い、崖下を見た。下は川ではなく、岩などがゴツゴツと転がっていた。

「……ヒヨリ、ごめんな……」

目から、また涙があふれた。ナックルは、崖の上から飛ぼうとした。
だが、それは後ろから誰かに引っ張られ適わなかった。

「ダメだよ、ナックル……」

ヒヨリは、ナックルがどこか遠くへいかないように、きつく抱きしめた。
足はボロボロで、傷口は完全に開いてしまい、血が滴り落ちていた。

「……放してくれよ、ヒヨリ。俺、何も覚えていないんだ……。俺が何をやっていたのか、何も覚えてないんだ」

ナックルの頬を涙が伝う。その涙は地面に落ち、消えた。

「覚えてなくていいんだよ。だって、あれはナックルのしたことじゃない。ずっと、傍にいるから……一緒に生きていこう?」

ヒヨリも泣いていた。傷が開き、痛いからではない。
目の前の男と離れたくないと、泣いていた。

「……ダメなんだ、ダメだよ。俺は、この手で人を殺した。覚えてなくても、わかるんだ。 人殺しの臭いがするんだ。この罪を忘れて逃げるなんて……。俺のことは、忘れて……。この罪は死んでも償いきれない……」

この、自分にこびり付いた腐臭は、もう二度ととれないであろう。ナックルは、そう思っていた。
覚えてなくても、確かにあれは自分がやったこと。自分は罪人だ。

「なら、一緒に死のう」

ナックルの言葉に、ヒヨリは涙を拭い、笑顔で答えた。

「大好きなナックルと一緒なら、死の国でも、地獄でも怖くない。どこだって行けるよ」

ヒヨリはナックルの前に立ち、微笑んだ。その微笑みに嘘はなかった。

「だ、ダメだよ。ヒヨリは生きなきゃ……」

ナックルは、保育器にいる自分とヒヨリの子供の姿を思い浮かべていた。
同時に、どれだけ自分はヒヨリを苦しませ、悲しませたのかも。ヒヨリの人生を台無しにしてしまった。
自分と出会わなければこんなことにはならなかったはず。ヒヨリには生きてほしかった。生きて、幸せになってほしかった。
誰か、他の人と……。そう思っていたのに、ヒヨリはこんな自分が良いと言ってくれている。
その想いに甘えられたらどんなに楽か……。ナックルはいつのまにか、しゃがみこんで、泣いていた。

「大丈夫だよ、ナックル。二人なら、何だって出来るよ。ずっと、傍にいる。ずっと守ってあげる」

ヒヨリはそう言いながら、ナックルを優しく抱きしめた。
昔……こんなふうにヒヨリに抱きしめられたことがあるのを、ナックルは思い出していた。
あれは、ヒヨリが留学に行く前の事。寂しがる自分を、ヒヨリは同じ様に抱きしめてくれた。
あの時、自分はなんてヒヨリに言った? あの時、自分は……。

「………おかえり、ヒヨリ。留学お疲れ様」

ナックルは、そう言い、ヒヨリがしてくれるようにヒヨリを抱きしめた。

「ナックル……」

ヒヨリもあの時のことを思い出し、微笑んだ。

「ただいま、ナックル」

ヒヨリは、そのまま意識を失った。ナックルは、自身の手であの剣を投げ捨てた。




それから、ヒヨリは徐々に回復していった。意識も戻ったが、二度と子供が産めない体になった。それ以外は、元気だ。
傷もふさがり、一般病棟に移されると、二人は大抵赤ちゃんを見に行っていた。赤ちゃんは、すくすくと成長していた。

「ねぇ、ナックル。この子の名前を考えてみたの」

ナックルと手を繋ぎながら、ヒヨリは微笑んだ。

「メイちゃん、っていうの。どうかな?」

ヒヨリはとても、幸せそうに嬉しそうに微笑んでいる。
ナックルもそれを見て、少し微笑んだ。

「うん、いいと思うよ」
「良かった、大切に育てようね?」

二人は幸せそうであった。

それから、何ヶ月がたったあと、ヒヨリはメイをしっかりと抱き、ナックルとヒヨリはしっかりと手を繋ぎ、この世界から立ち去った。
新しい、我が家を見つけるために。見つけた我が家は、大きくはなく、場所も都会にあるわけではない。
だが、三人は幸せそうであった。



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